chairoiinu’s diary

エッチな茶色い大型犬のブログ。

旅立ち

 十六歳で私は遠くへ逃げた。
 五歳で犯してきた父が売春に激昂し包丁を構えてきたので、手近なゴルフクラブを振り回し「クソジジイ!」と叫びながら抵抗した。傲慢と盲目の声で「なんなんだよ」と呻く父に「正当防衛だ」と叫ぶ声はもう少しで震えそうだった。母は言った。「逃げるのか」「お前は神か?」
 私は神となって逃げた。
 そして郊外の木造ボロアパートに住む二十歳過ぎの男に拾われた。彼の目は滅多に無いような疲れを湛えていた。最初は、身体を求めた。やがて近づいてこなくなった。
 よくソファーにもたれて煙を吸った。「君もいる?心の隙が脆くなり、人の形になる」私は断った。
 私は彼を求めた。でももう抱いてくれなかった。私がまっとうな生活を送れるよう、色々な助言をくれたが、すべて突っぱねた。彼は相当の苦労人に見えたが、騙されやすく、持ってくる話は胡散臭かった。私の事情を推し量るには人生経験の向きが違いすぎた。やがて情が冷め、他所へ行くと告げた。
 旅立ちの朝、いつもより煙まみれになった彼が、文庫本を三冊差し出した。「君のような人にこそ要るものなのかもしれない」中山可穂という作家の、王寺ミチル三部作だった。重すぎる、嬉しくない、と思いながら鞄にしまった。心の隙。彼の大事な物を盗んだ気がした。
 後日彼が首を吊って死んだ事を知った。

(2020年4月3日 01:09 パソコンのWeb画面に直接、4ツイート。微修正済)

幸せ、幸せ、幸せな街

 朝起きたら客間の本棚が無くなっていた。両親が騒がしい。彼らの都合で本郷あたりに引っ越すのだという。いつも唐突でなんの知らせもない。寝ぼけ眼のまま髪を縛り帽子で隠して、ジーンズパンツとくすんだメンズのパーカーを着て、茶色の犬を置いてきぼりのまま、僕は新居へ移動した。桜が舞っていた。
 下の階層に商業施設や学校の入った、賑やかな建物の上層階だった。一階は有名な家電量販店があって特に煩く、生活するには迷惑だ。
 入り口付近で、清潔な学校制服を着た健康そうな十代の黒髪の女の子と目が合う。ああ、いつもの君か。また若くなったね。女の格好の時の癖でつい微笑み返してしまい、警戒されなかったか心配になった。
 両親の勝手に用意した少し広めの自室には、もう引越し業者によって家具が運び込まれていた。前より隙間が多い。下層階のレストランを好きに使っていいという。病弱な僕は今日はそこで食事を取り、もう寝ることにした。
 大きくて開放的なバイキングレストランの窓からは、春の東京の青空とビルと緑と川と、満開の桜が一望できた。メイド服のような、大正ロマンみたいな服のウェイトレスが、普段の僕が絶対に食べない、病弱なので食べられない、豪華な香ばしい肉料理やじゃがいも料理を勝手に持ってきてくれる。
 大きなテレビで、呑気な昼の番組。男装する若い女性の、凄くニッチで下らないテーマを扱う絵が取り上げられている。行ったこともない町のそんなに有名でもない山々の、地元の人しか知らないような伝承とか由来とかを、インターネットの情報だけを頼りに知ったように語り、そして絵に描くという。そのおかしさが受けて麓の古びた居酒屋さんの壁には、その人の山の絵が飾られているのだそう。
 のんびりした番組は続く。
 昔は変わっているとされていた日陰の人たちが、どんどん表に出てきて、こういう人も何でもない存在になった。ニ〇ニ〇年花の都東京は桜に彩られ、多様な人が愛を育み、物は豊かだ。
 豊か、多様、幸せ、幸せ、幸せな街。僕の故郷。
 隣のおじさんが話しかけてくる。
「君、あの有名な親の、女みたいな息子だろう。噂になってる。越してきたんだろう。ここは何でもあるし羨ましいぜ」
 都会の人って、話し方に嫌味がない。まあ、病弱だというのは、気の毒だけどね。おじさんは続けた。
 豪華な食事のおかわりがいるか聞かれたので、断る。ウェイトレスの人たちも穏やかで、落ち着く。明日からここで雇ってもらおうかな。無理か。でも、先々に不安はない。病弱でも、人より多めに眠って、食べられるものが少ないだけだ。今日は寝よう。
 入り口ですれ違った制服の女の子が窓から入ってくる。
 紺色の制服。ずいぶん若くなった。華奢で、肌も髪もきれいで、背筋が伸びて、背が縮んで、清潔だ。
 君のこと、男の子だと思ってた。
 黒い濁った瞳で僕を見下ろす。引き結んだ口は動かない。目が顔の隅まで離れていって、急に真ん中で合わさり一つになった。
 久しぶり。おかえりなさい。僕は名前を呼んだ。

(2020年3月30日 00:40 スマートフォンのアプリからTwitterに書き込む)